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固定電話の歴史
固定電話が広く一般家庭に普及したのは、終戦後の復興と同時であったといっても過言ではありません。設備や人員が不足して、開通まで待たされることも珍しくありませんでした。
電話局が店舗に設置を依頼した「赤電話」「ピンク電話」
太平洋戦争によって日本の電話網は壊滅状態になったことは、前回お話したとおりです。戦後の1940年代後半から1950年代前半にかけ、電話の加入を希望する人が殺到し、需要が急速に高まりましたが、インフラ設備や作業要員が間に合わず、加入申込みをしても2年以上は待たされる状態だったそうです。
そこで電電公社(のちのNTT)が考えたのが委託公衆電話という考え方です。
1952年に電話局が電話機を店舗などに設置させてもらい、その管理を委託するという委託公衆電話が始まりました。その翌年からは、設置される電話機を目立つ赤色やピンク色に変更して委託設置するようになります。
これが「赤電話」や「ピンク電話」の始まりです。
電話をかける際は、これらの公衆電話を使えば良いのですが、では電話がかかってくる場合はどうすれば良いでしょうか。受信に関しては近所も電話を持っている家庭があれば、そこに電話をかけてもらって、その家庭から呼びに来てもらうといった仕組みが一般的になっていきます。これを「呼び出し電話」といい、以前は呼び出してくれる家庭の電話番号の後ろには(呼)と書かれていることを覚えている人は少なくないでしょう。
クロスバ自動交換機の導入で加入サービスが向上
このような時代背景のもと、市内電話はほとんどダイヤル式になっていたものの、大都市以外では市外電話はまだ交換手による呼び出し方式が普通でした。
しかも、その接続には料金によって「普通」「至急」「特急」の区分がありましたが、特急ですら申込んでから1~2時間も待たされるのが当たり前という通信状態でした。
この問題を解消すべく、電電公社は全国自動即時化、積滞解消を目指して第1次5か年計画を策定し、クロスバ自動交換機の導入と加入サービスの向上を急ぎました。
そして、1958年には最初のクロスバ市内自動交換機が東京の府中局と埼玉の蕨局に導入されました。翌年には最初のクロスバ市外中継交換機が宮城県の仙台局に導入され、1963年になってようやく電話加入数が500万件を超えるといった状況になりました。
このクロスバ交換機とは、縦と横の複数のバーがクロスした構成になっていて、ダイヤルされた電話番号から各バーに付いている電磁石の磁力により縦と横のバーが接触し、相手の電話回線へつなぐという仕組みです。
これにより自動交換機を経由する回線の自動接続が可能となったため、市外通話の自動化に適した方式です。ただ、そういったクロスバ交換器の導入が急ピッチに進められたにもかかわらず、積滞数がほぼ解消しダイヤル化率がほぼ100%になるまでには、1970年代の後半まで待たなければならないのです。
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